息子を国際人に 高校生になったら交換留学生に④ 留学直前

<不安無し!>

 

アメリカへの留学出発前に留学機関のAFSからアンケート用紙が親と子に来ました。出発にあたり、何か不安に思うことはありませんか?と言う問いでした。

 

母親としては16歳のポヤーッとした頼りない息子を1年間異国に送るのですから、いざ出発となると不安はいろいろありました。英語がある程度できるとは言っても、ネイティブのレベルではありません。日本で大きくなったため、とても日本人的な息子でしたので、現地で不適応を起こして鬱になっちゃったらどうしようなど、不安は湧いてきます。それを私が用紙に書いている隣で、息子は早々と書き終えた様子。見ると一言“不安無し”と書いているではありませんか!“あんた何も不安に思うことないの?行ったことないところに行くのに。”と私が申しますと、息子は怪訝な顔をして、“お母さん何言うてんの。楽しいと思うから行くのに、何で不安なん?”と申しました。私はハーッと肩の力が抜けました。

 

“楽しいと思い込ませる”作戦大成功でした。

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息子を国際人に 高校生になったら交換留学生に③ ホストファミリーが決まった!

 

We are Basque.

 

息子の留学が決まった後、早々とホストファミリーが決まりました。

なかなか時間がかかる場合もあるとのことでしたが、先方が息子の写真と紹介文をとても気に入って下さり、是非にと希望して下さったと言う嬉しいお知らせがAFSから届きました。それと同時に、ホストファミリーの家族構成や民族的背景などが分かる簡単な紹介文が送られてきました。離婚したお母さんと息子と同い年の男の子がいるご家庭とのこと。“うーんどこまでも父親に縁のない子だわ”と思いましたが、とても興味深い一文を発見。バックグラウンドの欄にWe are Basque.(私たちはバスク人です。)と書いてありました。

 

<誇り高い移民の末裔>

 

息子が参りましたのはアイダホの州都ボイジーから来るまで10分くらいのスター市と言う町です。ボイジーの発展にはスペインのバスク地方からの移民が多いに貢献したそうです。お世話になったファミリーは3世代前にバスクからやってきた方々でした。3世代前ですので、もちろんスペイン語は全く話せませんし、食べ物も完全にアメリカナイズされていました。でも、”We are Basque.”と高らかに宣言する姿勢は先祖が祖国から持ってきた文化とボイジーを作ったと言う誇りに満ちています。私はこの一文で、留学させることにして良かった!と思いました。“移民の国アメリカ”でこれから息子が出会う、日本では経験できないことにワクワクしました。

 

 

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息子を国際人に 高校生になったら交換留学生に②

<AFS>

私たちは幸運に恵まれました。息子が入学した大阪の公立高校は20年以上、ニューヨークに本部を置くAFSと言う交換留学組織の提携校として、毎年留学生を受け入れていたのです。また、英語の先生のご子息が3年前にその組織でアメリカに交換留学に行って戻られたこともあり、先生もとても協力的でした。AFSは世界大戦中に傷病兵の救護輸送に携わったアメリカのボランティア組織American Field Service(アメリカ野戦奉仕団)の活動を起源に持ちます。1947年に交換留学機関としての活動を始め、現在の加盟国は60か国以上、交流国は100か国以上に及びます。同時通訳者として名高い鳥飼玖美子さん、元外相の川口順子さん、元財務官の榊原英資さん、歌手の竹内まりあさんなど過去には錚々たる方々がAFSで留学されました。

 

 <しっかりしたサポートシステム>

この組織の素晴らしいところは、受け入れるホストファミリーが完全にボランティアで1円の報酬も受け取らないところ、事前のそして留学中も現地でのしっかりしあ研修があること、現地でもリエゾン・パーソンと言うスタッフの方がいらっしゃり、不適応の生徒をできるだけ出さないよサポート体制あり安心なことです。実際に息子の高校から留学した先輩お二人にお話しを聞きましたが、一人は前述の先生のご子息でアメリカに行かれ、もう一人は3年先輩のお譲さんで、留学先はオランダでした。お二人ともとても充実した楽しい一年でしたとのことで、私たちはこちらにお世話になることに決めました。

 

 <選抜試験は思い込みが大事>

1年生の夏に選抜がありました。英語の志願書と簡単な筆記試験と面接だったと思います。英語の志願書は私が息子が分かる単語で書きました。(この部分は親や学校の英語の先生の助けが必要です。) 面接は難しいものではなく、息子の話から察するに“行きたい”と言う気持ちがどれほど強いかを見られるものだったと思います。うちの場合は5才から思い込ませているのでばっちりで、無事翌年の9月からの交換留学が決まりました。

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息子を国際人に - 高校生になったら交換留学生に①

<高校生になったら1年アメリカに!>

3つ目の“高校生になったら交換留学生として1年留学させる”ですが、これも小さい時から、“アメリカに留学したら、英語も上手になるし、いろんな人に会えるしとても楽しいよ。ずっと公立の学校に行ってね。そうしたら、あんたが高校生になったら、アメリカに1年行かせてあげるからね”と刷り込みました。幸い離婚しており、ただ一人の親であったせいか、息子はごく自然に高校生になったら留学するんだと思って育ちました。

 

<どの高校に行っても国際人になれる>

実はどの機関を使って留学させるかなど、何も決めずに調べもせずに留学させることだけを決めていました。高校に入ってから調べようくらいに考えており、”執念のバイリンガル教育“の割には、きちんと計画していたわけではありませんでした。と言うのも息子が6年生になってすぐ、私はアメリカの衛星放送チャンネルより、仕事のオファーをもらいました。家の唯一の稼ぎ手でしたので、仕事第一に考え、彼を大阪の私の母に預けて東京に転職でまいりました。日本法人はとても小さな組織でしたが、立ち上げでしたので本当に忙しく、月に1度の帰阪時以外は、なかなか息子の留学先など調べる余裕がありませんでした。それどころか、高校受験ですらおばあちゃん任せで母である私は参戦せず、”元気で学校に行ってくれれば良いや“と言うスタンスでした。だって、どの高校に行っても国際人になれますから。

 

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息子を国際人に その3 楽しいと思い込ませる

<世界があんたを待ってるよ!>

 

さて、2つ目の“英語を話せたら将来楽しいことがあると思い込ませる”についてお話しします。

大阪に戻ってすぐ、地球儀を買いました。赤く塗られた小さな日本を息子に見せ、“日本はこんなに小さい国やよ。日本語はここだけで話されてるの。日本以外に世界にはこんなにたくさん国があって、いろんな人が住んでて、きれいなところや面白いところがいっぱいあるよ。英語が話せるようになったら、この世界中のどこに行っても、友達ができるし、一緒に楽しいことができるのよ。大きくなったら、あんたが本当にやりたいことなら、お母さんは何でも応援してあげるよ。でもね、何を選んでもいいけど、世界の友達と一緒にできるようになろうね!世界は広いよ、世界があんたを待ってるよ!”と言い続けて育てました。大阪から出たことの無い超ドメスティックな私の母はそれを聞いて、“またお母さんのほら吹きが始まった”と言っておりました。

 

<母にそう育てられたから>

 

大人になってからでしたら難しかったでしょうが、まだ幼かった息子は、“そうやね、お母さん。英語ができたら楽しいんやね”と多いに思い込んで育ちました。長じて、アメリカの大学院受験のための日本の奨学金に応募した面接で“どうしてアメリカの大学院に行きたいのですか?”と聞かれて、”母にそのように育てられたから。“と大真面目で応えたそうです。(ちなみに大学院には合格しましたが、その奨学金はいただけませんでした。)

少なくとも愚息と私の場合は、親の姿勢がバイリンガルに育てるのに大きな役割を果たしました。

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息子を国際人に その2 美しい発音を身に着けさせる

<幼いうちは音のみ>

子どもが幼い時の英語教育は、美しい音を身に着けさせ、英語に対する興味を持ち続けさせると言う2点に尽きると思います。母国語=日本語の体系が頭の中でできていないうちは、これ以上のことを学ばせようとしても無駄だと思います。かくして大阪の片田舎で私の執念のバイリンガル教育が始まりました。発音を残すためにはネイティブスピーカーの音を継続して聞かせる以外ありません。それもただ、音楽やビデオを流しておくのは、意識がそちらに向かないため効果が無いと思います。20年前の大阪の郊外には、ネイティブの保育士さんのいる保育園などなく、インターナショナルスクールなどもちろんありませんでした。たとえあったとしても離婚の母でしたので、経済的にそのような学校に通わせることは難しかったと思います。

 

 <週一回の一対一レッスン>

そこで私は息子に一対一のネイティブスピーカーのレッスンを受けさせることにし、電車で20分ほどのターミナル駅にある英会話学校めぐりをしました。学校には3年分ほどまとめて支払うと言うことを条件に担当して下さる先生とお話しさせてもらい、あまりにオーストラリアやニュージーランド訛りの強い先生、息子と(私と?)相性の悪そうな先生は避けました。父が定年退職して家におりましたので、週一回のレッスンに5才の息子を連れて行ってくれました。幸い息子は父が駅のベンチで毎週飲ませてくれたコーヒー牛乳に惹かれてか、喜んで通いました。この一対一のレッスン通いが17歳で交換留学に行くまで12年続くことになりました。

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息子を国際人に - その1

 <美しいネイティブの音を残したい!>

息子は生後半年から5才半までアメリカで育ちました。母親(つまり私)の離婚で5才半で大阪に戻りました。帰国当時、アメリカの幼稚園に通っていた息子は、ネイティブの子と同じように英語をしゃべり、私には絶対出ない音が出ました。何年も英語で苦労してきた私は、なんとしてもその音を残したいと思いました。

 

ダイバーシティーは楽しい!>

さらに、5年間のアメリカ滞在の経験、特に大学院で学んだ経験から、今風に言うとアメリカ社会のダイバーシティーがとても楽しく、アメリカ人のタフさも面白く、日本の価値観だけがすべてではないと身を持って感じ、息子を世界を舞台に活躍する国際人にしたいと切望するようになりました。そして、それが私の子育てのミッションになりました。

 

<国際人への3ステップ>

当時私が考えたことは、①美しい発音を残す。②英語を話せたら将来楽しいことがあると思い込ませる。③高校生になったら交換留学生としてアメリカに1年送るの3点でした。それぞれについてお話しします。

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